真面目な幻獣(まじめなげんじゅう)

もとは『今古奇談一閑人』にある話に出る化け物。

昔、紀州に菅野という医者がいた。
その息子の菅野静斎は、二十歳に満たないにもかかわらず書を好み、
その優れた才知が評判となっていた。
またその家を十歩も離れない所に水野という医者がおり、
その息子の水野蘆庵もまた壮年にして、歴史や思想に見識が深かった。
二人は非常に交流が深く、朝は歴史を論じて班固や司馬遷の蘊奥を探り、
夕方には詩を作って李白や杜甫の胸襟をうかがっていた。

静斎はうまれつき温柔で眠るのが好きだったが、
蘆庵はうまれつき騒暴で眠りを好まず、鶏が鳴くよりも早く起き、
夜中は亥の刻(午後10時頃)や子の刻(午前0時頃)になっても本を読んでいた。
蘆庵は常に静斎の眠り癖をあざけって
「人は七十年生きることは珍しく、普通は五十代か六十代で死んでしまう。
火を灯して学ばないでどうして昔の人と対等に語ることはできるだろうか
。 孔子の弟子の宰予は昼寝を非難していたし、蘇子も人生五十年でも
睡眠を減らせば百年の功があるといっている。
どちらも眠り癖で怠けるのを戒めたもので、実にもっともだ。」
と折々静斎を道理をもってなじるが、蘆庵は怒らず平然と受け入れ、笑って
「君は性格が騒がしく道理をもって私を責めるが、その嘲りを解こうではないか。
宰予の昼寝の話の真相は、唐の時代に「画」を「昼」と書き間違えたのであって、
「画寝」の間違いが伝わったのだ。
当時孔子の優れた弟子がどうしてそんな些細なことを叱るようなことをしなければならないのだ。
言うまでもなく、辺孝先も韓愈もみな眠り癖がある。
どちらも優れた人物であり、その学業は眠りによって妨げられることはなく、
世の人々に天地が朽ちても尊敬され続ける。
君も私も学問が心に満ちていてその量に差などない。」
と全く気にせずさらに前の倍も眠りをむさぼった。
このように性格は反対だったが、二人は知音の仲であった。

ある年の夏、二人は世間の煩わしさを嫌って家を出て、
吉野の山中にいる一人の学僧のもとに行き書を読んでいた。
学僧の名は愚仏和尚といい、一時期は学師であり、梵字を学ぶあいまに漢学を学んでいた。
和尚は二人の来たことを大いに喜び、ともに雅な事を嘆賞してまさに虎渓三笑し過ごした。
蘆庵は朝早く起き、小僧を起こしともに食事の準備をして和尚にさしあげ、
夜も四更(午前1時〜午前3時頃)にならなければ決して眠らなかったが、
静斎は朝は日が寝床にあたるまで起きず、多く食事をして仮眠し、
夜も二更(午後7時〜午後9時頃)になる前に寝た。

愚仏和尚は二人が嗜好が異なるが学力には優劣がなく、
睡眠のことについてたがいにそしりあうのを見て、
「さて二人の学問の行いについてはどちらが上か下かをいうことはむずかしい。
静斎の眠り癖は非常に怠惰に近いが、眠っていないときは汲々として書物がいつでも足りないかのようだ。
卒業におけるいわゆる三行を読むにしても、人が一巻を終える間に三巻の功がある。
蘆庵の蛍窓雪案の努力は古人と比べても恥ずかしくないほどだ。
ただ、思うに謝在抗の言うように人は本を読むとき真夜中を過ぎると気力を損なうという欠点がある。
学業が成って命が続くようにしたいのならば、今後は三更(午後9時〜午後11時頃)を過ぎないように。
愚僧は近日、先師の法事を行うので庵にしばらく僧たちを招こうと思う。
この山の中には空き家があり、昔から人寂しいところであったが近年は段々荒れていっているが、
食物は人に送らせるので七日七晩すぎるまでは堪えられる。また、閑静で学業にはいいだろう。
帰ってきたらまた共に研究をしよう。」
と両者を山へ送った。

二人も山中の趣はより世間を離れてさっぱりしていると思って、すぐに書籍を持って山を登った。
すると源泉が流れている所に空き家があり、愚仏庵からはあまり離れていなかったが趣が異なっていた。
緑樹が生い茂り、谷の水の音がかすかにして、夕方にカラスがきらきらと枝を埋め、
夕日が青い苔の上を照らす。仙人の源も遠くないだろうと二人は
少しの間短い詩を吟じて興を記し、夜に入ると静斎は早くに布団をかぶって雷のようにいびきをかいた。
蘆庵は微笑して「睡生ははやくも休息した」と一人で灯りの下に座り、書をひもといた。

三更(午後11時〜午前1時頃)ごろになると、突然外で砂や石を投げる音がし、
何者かの足音がして、それが扉を開けて入ろうとして帰るといったことが何度かあり、
そして結局それは入ることができずに帰っていった。
蘆庵はもともと書生なので怪事には慣れておらず、恐怖して静斎を起こそうとしたが、
静斎は起きず、ようやく夜明けになって起きたので夜中のことを話した。
静斎は笑って「今、眠り癖が君にまさっていることがわかった。」と言い全く動じなかった。
蘆庵も儒生が少しの怪事で驚かされて愚仏庵に言うのも悔しいと思い、
そのまま一緒に書を読みやっと六日目になった。
毎晩、例の足音は扉を開けるが入ることはできなかった。
蘆庵は恐怖を我慢し「あと一日たてば和尚が迎えに人をこさせるだろう」と
一晩を一年のように感じながら過ごした。
しかし静斎は例のように眠っていたので怪事を知らなかった。

その夜、日暮れから夕立が盆を傾けたように強く降り、
時々稲光がし、二更(午後9時〜午後11時頃)ごろから雷鳴が頻繁になり、
突然大きな音がしてその雷によって家屋全体が燃え出した。
蘆庵は書物を入れた布を抱いてひたすら逃げに逃げようやく愚仏庵に帰った。
静斎は火が部屋の中にうつってようやく目覚め、すでに火が衣服についていることに驚き、
ほうほうの体で逃げて髪や髭を半分焼かれて愚仏庵にやってきた。
蘆庵はすぐに静斎に向かって
「君は赤壁の戦いで曹操が逃げたかのような見苦しい格好だ。
はじめて眠り癖が不便なことが分かった。」と一笑した。

二人は愚仏和尚に会い、起きた事を詳しく語り、
「それにしても怪物が家屋に入ってこなかったのはいまだに不思議です。」
というと、和尚は笑って、まず無事を喜び、
「もともとあの空き家に一匹の古狸がいて人にいたずらをして驚かせ怖がらせていた。
そこで般若経の一文句を壁の上に張っていたので、足音は扉を開けたが中に入ることがなかったのだ。
雷に関しては天災であり逃れることは難しい。はからずも古狸は雷にうたれたのではないだろうか。
空き家が焼失してしまったのは惜しむようなことではない、
むしろ古狸によって静斎は、そして雷によって蘆庵はその短所をそれぞれ戒められたのだ。
ところで、一つ話そう。愚僧ははじめから二人の優劣を決めなかった。今言ったとおりのことだ。」
と、その怪異をあやしまずまたいつものように共に書を論じた。
その後、二人はともに大名に招かれ大きな藩の儒官となり、身に余るほどの栄誉を受けた。


水木しげるの本では、藤澤衛彦『図説日本民俗学全集』にある
大幅に省略されて紹介されたストーリーを元にしたため、
自らの欠点を反省しない二人をたしなめる「真面目な幻獣」と紹介されている。
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